名前もない思い出たち




長年お世話になっていたこのぼろアパート。荷造りも終わって、さあ、と立ち上がったとき、あるノートの束が目に付いた。あまりに汚いので夫がゴミに分類してしまったのだろう。危うく捨ててしまうところだった。
 どちらかというとまめな方ではなかった私が、書き続けた日記……。ああ、と言っても本当の意味での日記ではなかったかもしれない。他人に見せる事を、第一の目的としたものだったから。それでもこれは大切な思い出……。


「玲ちゃん」
 いつも、一緒に帰っていた葉子が立っていた。
「ああ、葉子か」
 そのまま一緒に歩きだす。
 二人の間はいつも無言だった。必要な事を話さないと言うわけでもなかったが、別段話す事も無ければ、ずっと黙っていた。
 お互いに少し仮想的で、少し学校に疲れていた。
 私はその沈黙の時間が好きだった。友達という束縛からの解放感。そして、微妙だけれど心地よい距離の安心感。
「玲ちゃん、空が」
 促されて空を見た。
 何とも言えないような空だった。
 それでも無理矢理、言葉にするとしたら黄色い夕日、とでも言うしかないのだろうか、山の端に沈みかけた光の結晶は、空を白く染めている。青と黄の境界は白なのか、と感心しながら葉子の方を見ると、とても嬉しそうに空を見上げている。
 いつもそうだった。葉子はいつも嬉しそうに空を見つめている。
 今にも雨が降り出しそうな、灰色一色の空にも、春の霞で滲んでしまったような空にも見とれていた。そして、誰もが感嘆の溜息をつくような、そんな世界を見つけるのがうまかった。
 そのまま二人で空を見上げ続ける。
 宵の明星が輝き始める。
 空の黄は黒々とした山に段々呑み込まれ、緑が生まれ、またそれも消え。
 青は藍へ。世界は暗くなる。……闇に覆われる。
「葉子、そろそろ帰ろう?」
 小さな星々までもが瞬き始めた頃、そう声を掛ける。
「……うん、ごめんね? また、遅くまで付き合わせちゃった……」
「? 良いよ、私も楽しかったし」
「……ありがとう」
 花が綻ぶような微笑み。
 私が言うのもなんだが、別にそう可愛い訳でも、美人でもなかった葉子。
 でも、二人でいる時に、たまに見せる笑顔は、本当に本当に素敵だった。
 心からの笑顔。幸せそうな、こちらまで幸せになれるような。
「じゃあ、またね?」
 そう言って、家の前の辻で別れる。
 ……少し、寂しい。
 足を速め、家路を急ぐ。……家族の待つ、小うるさいがそれでも暖かな我が家に。


 ある日の事だった。
「玲ちゃん……」
 葉子の困ったような寂しげな笑顔。……こんな顔するところ、始めて見た。
「……どうしたの? 何か……あったの?」
 それまで葉子と私の間にそんな言葉が交わされた事はなかった。交わす必要もなかったし、そう言うのを持ち込みたくなかった、と言うのも大きかった。……お互いに、別の生活を持っていたから。どこかで、確かに繋がっているけど、馴れ合いとか、仲良しこよし、いつでも一緒みたいになるのは嫌だった。
 だって、そんな関係になったら、今みたいにはいられない。必要以上に言葉を重ねて。お互いの隙間を埋めようとして。そんな窮屈な関係には、……葉子だけとはなりたくなかった。
 ……でも、そんな顔されたら、訊きたくなっちゃうよ? 大切な人だもん。哀しい顔、して欲しくないよ……?

 二人の間を支配するのは沈黙。緩慢な足音だけ。
 私は黙って葉子の顔を見つめている。
 葉子は何度も言葉を発そうとしては、俯いて。
 時が過ぎていく。別れの辻も、もう近い。
「……あのね、私、引っ越すの」
 やたらと響いた、その言葉。
「そう……いつ、引っ越すの?」
 そう言った自分の声がやたらと乾いていて。どうしちゃったのかな? そう心の隅で思う。
「……明後日……の日曜日」
 じゃあ……一緒に帰るのはこれが最後じゃない……。
「……いつから、判ってたの……?」
「……一ヶ月前、ぐらいかな……。……ごめんね、なかなか言い出せなくて……。……他の子達にも、言ってないの。でも、玲ちゃんだけにはどうしても……言っておきたかったから……」
「……何それ、酷いじゃない……」
 何が酷いのかもよく判らず私はそう言った。声が、泣いてる。やっと、追いついてきた、感情。
 この時間がなくなってしまう。葉子との、時間が。他の何とも代え難い、他の何とも、違いすぎて比べる事も出来ないような葉子との時間が。
「ごめんねぇ……? 玲ちゃん、ごめんねぇ……」
 葉子の声も震えてる。悲しいのは私だけじゃない。葉子の方が悲しいはず、怖いはず。……でも、やっぱり私だって悲しい。だって葉子は……他の子と違うんだもん。ずっと、一緒だと思ってたよ? ずっと、ずっと……根拠なんか、なかったけど。あっけなく、終わってしまうけど。
「なんで葉子が謝んのよぅ……仕方ないじゃない……でも、……よう……」
「寂しいよ……玲ちゃん……一緒に空……見るの……ここの空が……玲ちゃんと見る……空が……好き……なのに……う……いっ……見られ……ない……」
「……私……も、……好き……だったよぅ……? ずっと…………」
 葉子と二人、抱き合って、ずっと二人で泣き続けた。
 日が、暮れるまで。



 葉子が引っ越す日が来た。
 何時に出るのか聞いていなかった私は、それでも午前中はまだいるだろうと、たかを括っていた。
 午前10時。そろそろ、行こうかな? そう思い、靴を履き、家を出る。ノートを一冊、メモ帳も持って。
 今日も良い天気。……絶好の引っ越し日和。
 見慣れない、トラックが一台。横を通り過ぎる。って……、
「葉子!」「玲ちゃん!」
 トラックが少し行き過ぎて、止まる。小走りに葉子が助手席から転げ出る。
 トラックの脇を通ろうとしていた車が慌ててハンドルを切る。
「あ、危ないじゃない!」
 思わず私。それにしても、葉子も私も、良く気付いたものだ、お互い。
「ど、どうしたの玲ちゃん、こんな時間に、日曜日なのに」
「葉子こそ、こんな早いなんて、聞いてないわよ!」
「だ、だって……言ってなかったし……」
「そ、それはそうだけど、あのね、引っ越し先ぐらい教えてくれたって良いでしょ? ……わざわざ聞きに来てあげたんだからね! 感謝……しなさい……よ……」
 勢いづいて言い出したが、最後は恥ずかしくなって……しまった。
 だって、そんな事を葉子が望んでなかったら? これが私だけの、感情だったら?
 ほら、葉子の驚いたような顔。……でもそれは次第に微笑みに変わって。
「……ありがとう、嬉しい……」
「……本当に?」
「うん、ホントだよ?」
「じゃあ……あのね……」
 今度は最初から言い淀んでしまう。
 だって自分でだってなんて恥ずかしい事考えてんだって感じだもん。……でも。
「葉子には、……手紙は書かないからね!」
「……?」
「……その代わり、……毎日の空を書いてあげる。ここの空を。この町の空を、教えてあげる……リアルタイムでとは言えないけど、このノート薄いから、すぐに一杯になるから! だから……」
「……ありがとう、楽しみに、してるね?」
「……それなりに、期待してなさいよね?」
「……うん」
「ほっ、ほら、住所書いて!」
 メモを差し出す。
「……うん、……ねぇ、玲ちゃん?」
 顔も上げずに葉子。
「……な、何よ?」
 まだ恥ずかしさの余韻が残るのか、無駄にぶっきらぼうな返事をしてしまう。
「あのね、……空を書く時にね、ちょっとだけで良いの、どんな気持ちだったかも書いてくれる?」
「……良いけど、どうして?」
「……えっとね、空に限らないんだけどね、色とか……景色とかって、……その時の感情で凄く見え方が変わるの。嬉しい時に、もっと嬉しくなるような空。哀しい時に、慰めてくれるような空。もっと哀しくなってしまうような、それでも綺麗な風景もあるだろうし……。
 だからね、書いて欲しいの。ちょこっとだけで良いから。……ほんのちょっとだけで……」
「……判ったわ……大サービスだからね?」
「うん、ありがとう、玲ちゃん、私も……手紙、書くから……」
「……だから手紙じゃないってば!」
「うん、そうだね、……ふふ」
「そこ、笑わない!」
 ……ああ、きっと今私の顔は真っ赤に違いない! 何せこんなにも熱いんだから……。
「……あ、お父さん、怒ってる……」
「じゃあ、そろそろ……」
「うん。……またね?」
「勿論、また会ってやるからね!」
 葉子が車に乗り込む。
 私はそれを見送る。
 ……トラックが視界から消える。
 ……また、今頃泣けてきた。







 それで毎日、むしろもう空を見る度にせっせと書いたのがこのノートたち。
 一ヶ月に二冊ぐらい、送ってた。……本当にマメな事よね。
 ん? なんでそれじゃそのノートが今ここにあるかって? ふふ、交換したのよ、彼女のくれたノートたちと。
 ……葉子もね、手紙を書くって言って、ノートを送って寄越したの。一緒に見た空には劣るけど、ここで見える空も空だからって。全然花の咲く時期も、順も、暮らす生き物達も違うから、それを教えたいって。
 ……そこには彼女のチマっこい字で私の知らない土地の春や、夏や、秋や……全ての季節が綴られていた。嬉しい事や、悲しい事も全部暖かい世界にくるまれてた。
 彼女に目に映る世界を少しだけ覗いてみてたって事よね。
 ……つまり私も同じ事してたって訳で。そう思うとちょっとかなり、恥ずかしかったりするけど。
 ……まあ、とにかくそう言うものだから、……捨てる前に気が付いて本当に……良かったな……。
 って、そうだ! なんでゴミに分類したんだって、文句言いにいってやんなきゃ!






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